曳山の歴史

  • 土崎曳山まつりについて
  • 曳山行事のあらまし
  • 曳山の魅力
  • 曳山と携わる人々

曳山行事の歴史

明治14年(1881年)

土崎神明社が県社に昇格。

明治22年(1889年)

隣村の相染新田村(現在の相染町)が合併。土崎港町となる。

明治32年 小鴨町曳山

明治32年(1899年)

小鴨町曳山の様子

外題/鮎も君も 奇惴の法臺

見返し/外人と邦人との首引

高さを競った頃の曳山の行列。後方に同じような高さの曳山が見える。同時に子供曳山も曳かれていた様子がうかがえる。高さは7丈(21m)ほどと見られる。

明治34年(1901年)

土崎に電線が引かれる。これに伴い運行制限がなされ、曳山は徐々に低くなっていき、現在の約5メートルの姿になったといわれている。

大正2年(1913年)

8月。土崎神明社鎮座三百年祭を挙行。

大正2年 下新町曳山

大正2年(1913年)

下新町曳山の様子

外題/暁星遺恨 仁義の軍配

見返し/(不明)

土崎神明社鎮座三百年祭の絵葉書の裏面。
「土崎懸社神明社 大正二年八月 三百年祭記念」という記念印と、「土崎懸社鎮守神明社鎮座三百年祭ニ於ケル下新町引山」の押印がある。

大正4年 町名不明

大正4年(1915年)

町名不明

外題/(不明)

見返し/(不明)

見せるための曳山=置山(おきやま)。
過去にはこのように曳き回さない、固定した置山も盛んに作られていた。
写真は現在確認できる、最も長い置山といわれている。左右の端が切れているが、両端には更に続いていると考えられている。

昭和6年 新町曳山

昭和6年(1931年)

新町曳山の様子

外題/四海に轟く 源氏の若武者

見返し/(不明)

祭りにおいて、初めて踊り(港小唄)が踊られた際の写真。他の曳山に見物人がいなくなるほどの人気であったといわれ、以降、現在に至るまで踊りは祭りに欠かせないものとなった。写真中央の着物姿の4名は女装した若衆。

昭和16年(1941年)

4月。土崎港町が秋田市と合併。土崎港は「秋田港」と改称。

昭和19年(1944年)

太平洋戦争により祭りが取りやめられる。

昭和22年(1947年)

祭りが再開される。人形の刀や槍の使用に米軍の許可がおりず、拳人形となる。

昭和38年(1963年)

土崎神明社鎮座三百五十年祭を挙行。

昭和47年(1972年)

この年から、土崎経済同友会が「みなと祭りのしおり」(土崎地区全世帯配布の祭りガイド冊子、のちに「港曳山祭りのしおり」に改名)を毎年発行する。

昭和55年(1980年)

伝統民俗芸能の保存伝承のため、港和会、娯笑会、しぶき会、若波会により「港ばやし保存会」が結成される。

昭和62年(1987年)

「みなと曳山車音頭」が作曲され、踊りの振り付けもつけられる。

平成元年(1989年)

音頭取り・振り方の保存継承のため「音振会」が結成される。

平成元年 秋田市制百周年 置山

平成元年(1989年)

秋田市制百周年 置山

土崎駅前児童公園に飾られた高さ23メートルの置山。

平成4年(1992年)

社会情勢により露店が大きく減少。にぎわい創出のため、「ふれあい港カーニバル」が開催される。

平成5年(1993年)

秋田市の無形民俗文化財に指定される。翌年(平成6年)、秋田県の無形民俗文化財に指定される。

平成9年(1997年)

12月15日、県内で10番目(当時)となる国の重要無形民俗文化財に指定される。

平成11年(1999年)

観光客が曳山を曳く体験ができる催しとして、20日の夕方から夜にかけて「ふれあい曳山」(のちに「ふれあいまつり」)が秋田みなと振興会の主催により行われる。以降、毎年開催される。

平成18年(2006年)

土崎駅前開発の道路拡張工事に伴い、土崎神明社の祭館と拝殿が改築される。この年から、7月20日に曳山を境内に入れての参拝で、ある「郷社参り」が始まる。

平成22年(2010年)

9月12日、全国山・鉾・屋台保存連合会総会秋田市土崎大会が開催され、10台の曳山が奉納。郷社通りで、高さ15mの「復元曳山」が披露、運行される。

平成25年(2013年)

土崎神明社鎮座四百年記念。戦後最多同数となる25台の曳山が奉納。高さ15mの「復元曳山」が披露、運行される。

平成25年度 四百周年記念復元曳山

平成25年(2013年)

平成25年度
四百周年記念復元曳山

土崎神明社鎮座四百年祭において、高さを競った頃の曳山を再現した復元曳山。高さ約15メートル。

文献からうかがい知る
祭りの歴史

宝永元年(1704年)『国典類抄』(前篇吉部四十四)
秋田県公文書館蔵

  • 国典類抄

祭礼の創始についての記録
宝永元年(1704年)に土崎港に来る船乗りたちが神輿を寄進したために、翌宝永2年(1705年)から神輿渡御巡幸を行うことを町の人々が寺社奉行に願い出ている。

文化12年(1815年)『秋田風土記』(秋田郡)淀川盛品著
秋田県公文書館蔵

  • 秋田風土記

県内各地の地誌についての記録
土崎神明社の神事について、現在は行われなくなった「鰯祭」や「注連切神事」が行われていた様子が記されている。

明治11年(1878年)『日本奥地紀行』(東洋文庫)イザベラ・バード著高梨健吉訳
平凡社出版

外国人から見た祭りの様子が記された資料
「(前略)私たちはもっとも雑踏しているところへ出かけた。そこは大きな山車が二つあって、私たちは先ほどその巨大な構造物を遠く眺めたのであった。三〇フィートも長さのある重い梁を組み立てたもので、中身のしっかりした巨大な車輪が八個ついていた。・・・(中略)・・・上端には不揃いの高さの特殊な山が二つあった。全体は地面から五〇フィート近くあった。これらの突出部は全て黒い木綿の布で包まれ、そこから松の枝が突き出していた。まん中には三つの小さな車輪が上下に重なっていて、その上の縞のように白布が絶えず波うっていて、瀑布を象徴していた。底部には別の白布が並べてあって川を示し、青い布は下からふいごでひらひら揺らせて海をあらわしていた。・・・(中略)・・・これら二つの山車は、街路上を引かれて行ったり来たりしていた。引く男たちはそれぞれの車に二百人で、三時間で一マイルしか進まなかった。たくさんの男たちは、てこを使って重い車輪が泥にはまりこんでいるのを引き上げていた。」

寛政元年(1789年)『雪のふる道』(三四)津村淀庵
国立国会図書館蔵

  • 雪のふる道

曳山が曳かれていた様子を記した最古の記録
40もの曳山が曳かれ、久保城下よりも賑わっていた様子が書かれている。

文化元年(1804年)『蕉雨斎叢書』(羽陰風雅)人見蕉雨
秋田県立図書館蔵

  • 蕉雨斎叢書

当時の祭りの賑わいを知ることができる
「二十日今宵土崎伊勢祭礼夜宮。灯籠の光天を焦す。数理の外より遥望しても湊の方昼のごとし。翌二十一日祭行、山棚、屋台、出し、練物藩中の壮観目を駭す。府下の商人よりも、縁家の方へ贈り屋台とてあり。遠近在々まで群集して錐を立る地なり。」
※『人見蕉雨第四冊秋田さきがけ叢書4』より引用

文化11年(1814年)『風俗問状答』(神社仏閣)那珂通博
秋田県公文書館蔵

  • 風俗問状答

当時の人々の祭りに対する姿勢や賑わいをうかがい知ることができる記録
「廿一日土崎神明祭秋田の郡土崎の港の惣鎮守、別當修驗三光院、神職土崎氏。宵祭の燈火もつとも盛ん也。この日神輿穀保町御旅所へ神幸、供物の練物、山鉾等町々より數を盡して出る。町々もかたみに競ひて客の多きをはれとして、知るしらぬ者も來るにまかせて饗應するなり。」
※『秋田叢書(三)』より引用

弘化3年(1846年)頃の土崎の絵図『土崎港町史』巻頭綴じ込み絵図
秋田市役所土崎出張所出版

  • 『土崎港町史』巻頭綴じ込み絵図
  • 土崎港曳山まつりポスターライブラリ
  • 土崎港曳山まつり PR MOVIE
  • 土崎神明社
  • 港ばやし保存会